日中戦争勃発から日米開戦前までに3度首相を務めた近衛文麿。その人物像について当時の内閣関係者や知人らが語った証言集「諸家追憶談」を、東京都杉並区教育委員会が新書として刊行した。学芸員10人が関わって2年がかりでまとめた力作で、日独伊三国同盟や大政翼賛会誕生の背景にあった近衛の考えや、自決前の様子なども語られている。
近衛文麿と荻外荘
1891年、旧華族でも家格が高い「五摂家」の一つ、近衛家に生まれる。貴族院議長を経て1937年の第一次内閣発足後に起きた盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発。国家総動員法制定や日独伊三国同盟締結、南部仏印(現ベトナム南部)進駐など、昭和史の転換点となった時期の首相となった。 荻外荘は、寺社の名建築で知られる伊東忠太の設計で、大正天皇の侍医だった入沢達吉の別邸を37年に近衛が譲り受けた。第二次内閣の方針や対米開戦回避を探る重要会談に使われた。敗戦後、A級戦犯の指定を受けた近衛は45年12月、ここの書斎で服毒自殺した。
区内には、近衛文麿の別邸だった国史跡「荻外荘(てきがいそう)」がある。重要会談があった客間など建物の一部が1960年に豊島区内に移築されていたが、2018年に杉並区が買い取って元の場所での復元整備を進めてきた。区教委は歴史的な価値を広く知ってもらうため、近衛家歴代の資料を納める陽明文庫(京都)との共同調査のなかで追憶談に着目した。国立国会図書館でマイクロフィルムが公開されているものの、全体を活字化したものはなかった。
敗戦後に近衛が自決した後、伝記をつくるため、21人に聞き取って書き起こした原稿は800枚以上。区教委はすべて撮影し、現代仮名遣いに改めたり、句読点や改行を加えたりし、読みやすく新書にまとめた。
戦後、厳しい評価もあった近衛内閣の施策に対し、政策の「真意」を説くものが目立つ。ブレーンだった松本重治は、第二次内閣組閣直前の1940年7月19日、荻外荘での会談は日中戦争解決をはかるためだったと説明。日独伊三国同盟はそのためで、大政翼賛会につながる政治新体制構築については軍を抑える狙いがあったと述べている。
拡大する芝生の公園内から見える「荻外荘」=東京都杉並区
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル